昨日の記事「人からどう見られているか」に関連して。
BS日テレの「深層NEWS」で養老孟司氏が『「貧困の壁」の克服法』について語っているのをひと月ほど前に見ました。話が古くてすみません。
その時は養老節に圧倒されたのですが、博士とか教授に憧れる息子が後で見たいと言って録画してあったものをもう一度見てみました。
養老先生のことは「バカの壁」などで名前は知っていたが、心にとまったところを。
小さい文字は私の補足(蛇足?)。
現代は不安が多いといったフリに
不安はあって当たり前のもの
→最近はそれとうまく折り合いをつけられない人が多い。
幸福度ランキング「世界幸福度報告書2016」53位だが。
(社会的自由度と寛容さが日本人は著しく低いのだそう。確かにね)
どういう尋ね方をしたかにもよる。
日本人は幸福だなんて言わない。
仏教では四苦八苦という、「苦」を背負うべきと思う傾向がある。
面白かったのは日本の主婦の半分がいっていることとやっていることが180度違うという話。
やってみないとわからない。という話もしていました。
私の好きじゃないランキングに思い切り「そんなの関係ねえ」的なコメント。
現代のシステム化された社会にはまるかはまらないかだが、目の前の問題(食糧など)がなくなると、人生とはなにかなどを考えるようになってきた。
贅沢病か。
世間との折り合いが悪い人→自分の壁が立ちはだかっている。
だが、なぜ壁ができるのかについてあまり考えなくてよい。
日本の伝統的なものの学び方は「己を虚しゅうする」ことだ。
「先生をたてる」というのはなにもしらない自分がこれから学ぶ、という姿勢があるということ。
そういう姿勢があったからこそ西洋のものも抵抗なく平気で学べてきた。
そういう気持ちが薄れてきた。
今は「〜だからこの先生はえらい。」という理由が必要で、そういう言い方を今はするが、そもそも学ぶものの姿勢があれば、先生の質などはあまり関係ない。
先生を批判する前に自分がまずきちんと学ぶ姿勢を持っているのか!ということか。
そして、自分にはなにかがあると思って「自分探し」をするように。
「自分を探すってじゃあ探しに行くお前は誰なのか!」
強烈なツッコミですね。
我々日本人の文化は自分を正面に出していない。
「環境」ということばがあるが、自分の周りにあるものだと自らと切り分けて考えるから生まれた。昔はそんな言葉なかった。
自分は田んぼである。田んぼの米を食べたら自分も田んぼになる。
ここにあるのが私、ただそれだけ。 禅でもそういう考え方。
対して一神教は自己が頑然とあり神と対峙している。
国際化にあたり、自分の主張をしっかりいうことが求められ、自分の意見を持たないことはよくないというようなことが言われる。
日本人は国際会議で黙って帰って来る、いいんですよ。それで。
どっちがいいとか悪いじゃない。違うのだ。
個性を尊ぶ教育がさかんになってきたが、そういった西洋の文化が日本文化に受け入れられなかったからうまくいっていない。
無理しなくてもいいでしょ、自然でいいでしょう、
「自分はあるに決まっている」んだから。
人と自分は違うに決まっている。
「世界に一つだけの花」っておかしいでしょ、当たり前。
二つある花があるなら持ってこい。
いいも悪いも個性はだれにでもある。あるものはしかたないでしょ。
いや、マッキーも同じこと言ってるのですよね。
でも養老氏にとっては当たり前すぎてわざわざそんなこと言うなんてってことなんでしょう。
つっこまれてみてあらためてマッキーの言いたいことも強調されるような。
《自分の壁ができやすい人》
- こだわりすぎる
- 仲間や知人の成功をねたむことがある
自分が自分だと思っている人には他人のことは気にならない。
「自信がある人」ってことですか?の問いに、「自信があるとは言いたくない」と。
わかります。「自信がある」ってただの自分を受け入れているのとはちょっと違う。
自分のいた研究職でも、「他人のものさしの中で成功しなければいけない」というのが見えるのがいや。ノーベル賞とかもね。
ノーベル賞、確かにすごいけど、いつも化学などのことに全然興味ないのに評価されたってことに
国中大騒ぎするのに違和感。結局評価されるのが大事なのか! 確かに日の目をみない地味な研究をしている方がたくさんいるわけで、なんだかね。そんな方達にみんな興味ないでしょ?
いいとか悪いとか暗黙のものさしを使う。そのものさしは何なのか。
《壁を取り払う方法(結論)》
養老氏は壁を取り払わなくてはいけないとも言っていないが。
- 自分探しは無駄
→本当の自分は探さなくてもある。 自分は変わる。
-
田んぼを見る
→米を食べたら田んぼも自分の一部。自然は自分の手に負えない。
以上。
日頃より、マスコミは白黒つけたがるし、こっちがいいって安易に言いたがる。
なんとなく、キャスターの方たち、半分わかっていないような感じで首をかしげるところがありました。自信があるって、いや違うでしょ。
そういう世界にいてそういう思考でちゃっちゃかこなしていると、あまり考えないことなのでしょうか。
今回のタイトルだって「克服法」って書いているが、おそらく養老氏は克服すべきなんて別に思っていないのでしょう。
養老氏の底流にある考えは、「あるがままを受け入れる」なのでしょう。
「ありのまま」ってよく聞くフレーズではありますが、実際はなんか底流には「こうあるべきだったができない自分」を慰めるために「ありのままの自分でいい」みたいな使い方をすることが多いような気がします。
「いい」って言っちゃってる時点で結局白黒つけているし。
養老氏の話は「いいも悪いもない。ただそうであるだけ。」と言っているようでした。
養老氏78歳。78歳になるまでの経験から得たものを自分の歳で受け取れるというのは大変お得ですよね〜。
日本ってあまり歳をとることをプラスにとりませんが、やはり年配者の話は聞い見て損はないかも。
でも、これからの世代は西洋思考万歳で育った人たちが大人になっていくので、こういった日本古来のゆるやかーに自然とグラデーションのようにとけこむ思考が廃れていくのではないかな、そうするとストレスフルだなぁ。
ん、でもいまは「さとり世代」とも言うし(世代に名前つけてくくるのもいや)、いまの若い人の生き方は、バブル前後の我々のガツガツランキング思考の生き方とはちがっているのかも? もしかしたら原点回帰なのかしら?
ほかにも話の最後に保育園についてのお考えがあるようで、気になりましたがタイムオーバーでした。また機会があったら聞いてみたい。