薄っぺらい
先日、とある会のあと、5人ほどで会話をしました。
成績トップの子の話。
家族や本人が「イケメン」である話。
年齢の話。
なんだか時間の無駄だと感じてしまいました。
巷では、そういう話がとても多い。ちょっと辟易ぎみ。
そして、ブランドがある一方で、そうでないものは存在価値なしみたいな言われ方。
東大生がもてはやされ、そうでないと価値がないみたいな。
逆に東大生は使えないとか。手のひら返しも大得意。
「これからは医者ぐらいしか儲からないから価値がないだろう」みたいなことをいい大人が平気で垂れ流す。
小学生なら、運動神経がいい子がもてはやされ、スクールカーストなら友達の多い人気者がもてはやされ、どんくさい子や「下位カースト」や、チビ、デブ、ハゲなど見た目が残念な人は自虐するしかなく、平気でいじられる。
そういうことを子どもの親も平気で口にする。
本人の努力以外のことでほめるって、結局そうでないものを落としているのと同じではないか。
すごい才能や突出した美しさに感動するのは当たり前。
だけど、そうでないものを落とすのであるなら、なんて薄っぺらい、表面的なのだ。
年齢のいった独身女性は何の価値もないかのように語られ、それを同じ女性でさえ、どこか真理のように話したりする。
中学受験の掲示板などでも、とても下世話な価値観のぶつけあいがあったりして、いくら名門校を目指していたり保護者本人が優秀であったとしても、そんな価値観しかないのかと残念に思うこともしばしば。
大学も高校も、就職に困難とかそういう観点ではなく、本当にただ単にバカにするように「◯◯以下は価値なし」といった見方をされることが多い。
よく知らないなら語るな!
知り合いの親御さんが大学受験を経験していないこともままあります。
そういった方の大学の見方の方がむしろ受験した私たちよりよっぽど簡単に「◯◯以下は価値なし」と言ったりします。
もちろんそれは実態を知らないから。勉強が嫌いで苦手な子どもを「最低でも◯◯以上に行かないと」なんて語るのをたびたび聞くと、なんと言っていいのかわからない。
でも、大学に限らず上にあげた多くが「知らない人が外野から勝手に決め付けている」。それぞれの個々の事情や魅力、大学受験の大変さ。
この前私は息子に話しました。なんとなく進路の話を雑談でしていたときに、ある職について「ああ、それは〜だから、いい。」みたいなことを言ったのです。
「あなたはそれについて特別になにか調べてみたのか。そんなに知らないくせにわかったように言って、進路から排除しないほうがいい。」
ただ、息子は反抗期真っ只中。
「自分の意見を言ってはいけないのか! 今そう思ったから言っただけだ。」
と、論点をずらしてくる。
「そりゃあ、どこかで選んでいかなくてはならない。だけれど、積極的にこちらにしてみようかな、というのはよろしいけれども、「これはなしだな。」みたいなことを、たかが中学生が知った気になってどんどん自分の世界を狭めるのはやめなさい」と話しました。
あなたの学校を、調べたことも来たこともない小学一年生が知ったように「ああ、あそこね。どうせこんなところだろうから、いかない。」なんて言っているのを聞いたら、「(思うのは勝手だけど)ちょっと違うだろ」って思わない?
そう言ったらなんとなくわかったようでした。
今は、テレビですぐにニュースやら事件やらスキャンダルによく知らない人たちが勝手な感想をいかにも批評かのように語ったりする。
そうして当事者の苦労や事情やその辺をぶったぎってなにかのレッテルを貼り付ける。そして、悪いレッテルを貼られた人はもう終わり。
日本の芸人が身体的自虐ネタでかなりの笑いを取っているけれど、本当にくだらない。
お笑いの世界がこういった価値観を強固にしているような気がします。
私はお笑いネタ番組は大好きですが、自虐がメインの芸人さんは好きではない。
人間とは差別したいものなのか
どこかで、「海外(といってもどこか忘れました)では、そういう身体的なことで笑いをとったりしない」というのを聞いたことがあります。
ある意味頑然とした宗教の違い、人種の違いがあって、根底に差別がはっきりとあるからこそのタブーなのかもしれませんが。
そういう意味では日本人はあまり違いがなかったからこそ、差別をしたいのだろうか。
そのべっとりくっついた比較の価値観で下に見られないようにと、誰でもいいから無理して繋がったり、媚びてみたり、「こんな男(女)は結婚する価値なし」なんて切り捨てたり、無理して高い車買ったり、ブランド物を持ったり。
流行を追いたくもないのに無理して追って、去年の流行はもうオワコン。
SNSの盛り合戦に嫉妬の嵐。
もっともっとと本人も自らの首をしめて、もう何が大事なのかわからなくなる。
勝ち組、負け組。リア充、非リア。ひとくくりとレッテル貼り。
血液型も大嫌い。4パターンに分けられるわけないじゃん。科学的でもないと言われているのに。でも、そんなことどうでもいいのだ。とにかく分けて差別をしたいのだ。
そんな世間に違和感
私には、あまりわからないのです。もちろん人と全く比べていないわけではない。
だけれど、大人になるに従いますます人と比べて嫉妬を感じなくなった。
何だろう、「ただ、そうである」って感じにどんどんなってきているのです。
学歴もしかり、世帯収入もしかり。
賢いのだなぁとか、あちこち旅行できて羨ましいな、などと思うことはあっても、気後れするとか、嫉ましく思うということはない。
まさに、過去記事で取り上げた養老先生の「ただそうだ」というだけ。いいとか悪いとか評価しない感じ。
なんでなのかと考えてみました。
色々読んでいたら、このような記事がありました。
記事の途中にリンクしましたが、このページの引用が一番面白いと思いました。
では、どのような競争が望ましいのか?
おそらくは、競争を否定するより、競争のベクトルを増やすことのほうが賢明だろう。
勉強に勝てなかった子どもが、運動会のときだけは優等生に勝てると思って頑張るということは昔からあったものだ。
勉強やスポーツや音楽といった数少ない競争では、クラスの中で、勝ちの体験ができる人間はやはり少数ということになってしまう。
たしかに私は特に小学校のときはオールラウンダーとして活躍場面が人より多かった。
運動会、作文、習字などなど。壇上に立つ機会ははっきりいって多かったのです。
それは所詮普通の公立小学校の平凡なクラスの中での何人かが経験するありふれたものではあるけれども、そして自分はそれをたいしたことだと思わず過ごしてきたけれど、割と大人になってから、そういった「一番」を味わう人って実はそんなにいないのか、と思いました。
もちろん私には苦手なこともありました。運動も全てとは言えないし、楽器はそれほどうまくもなかった。人よりたいしたことのないことも多かったです。
でも、ひとつでもいいから競争に勝ったことがある、という経験が自分を認めるきっかけになるのかもしれない。
いろいろ読んでいると、自分に自信をもつために競争しないほうがいい、と書いてあるところもありました。
それで一時期順位をつけない運動会などありましたが、それがいいとは思いません。
順位をつけなくたって、一目瞭然で差はあるわけですから、臭いものに蓋をしているにすぎない。
たとえばすごい美人と比べて「あなただって同じくらいきれい」と言われて嬉しいでしょうか?
結局人それぞれ得意なことも違うのだから、優れていて素晴らしいことの価値観を増やせばいいのではないでしょうか。
すると、教師の仕事というのは、一人ひとりの生徒で、何かしら勝てるものを探してやるということになるのかもしれない。
誰よりも、虫に詳しい昆虫博士のような子供が昔はいたが、自分の得意な分野で人に勝てるというだけで、けっこうな自信家になれるものなのではないかと、昆虫オタクの養老孟司先生などを見ていて感じることがある。
料理がうまい、カルタが強い、将棋が強い、一発芸がうまい、ダジャレを作るのがうまい、ファッションセンスがいい。何でもいいから、人に勝てるものがあり、それをコフートが言うように認め、ほめてやることで、その子の自己愛は満たされる。
大変面白いと思うのですが、 今の世の中、冒頭のように大人自身が決まり切った価値基準のなかでばかり評価したがるので、なかなか難しいですね。
よく、お子さんに問題があるなーと思うと突き詰めると親御さんが問題を抱えているな、と思うことがありますが。
上を見たらキリがない
ただ、私よりずっと高レベルの学歴などをもっていても、自己肯定感がひくく、人を見下すような人もいますよね。
そこには親の価値観が大きいのかもしれません。
知人の話ですが、お子さんがとても英語が苦手でした。もともと苦手なので勉強量も十分とは言えなかったのですが、少し勉強量が増えたおかげでテストで平均点を取ることができました。
当然、本人は喜んで
「点数があがった!」
と、普段はテストの話をしないのにお母さんにアピールしてきたそうです。
その返事が
「平均点くらいで何言ってるの! しかも、お母さんがやりなさいって言ったからできたのだから、点数があがったのはお母さんのおかげだ。お礼を言いなさい。」
と話したというのです。
せっかくの成功体験を台無しにしたと、私は思ったのですが、結局このお母さんはいつもこのようなことをしていて、とにかく日本一みたいなレベルの方にとても憧れているのです。それを平然とお子さんの前でも口にします。
そのお子さんは、ある分野でとても優秀な成績を出しています。
にもかかわらずお母さんはほとんど毎日その子の愚痴です。
幸いそのお子さんが今それほど人を見下すような子だとは私は思わないのですが、
実際は同じクラスのなんでもできる子が受験に失敗したときに、
「(彼の進学予定の学校)は残念だな。」
と言ったそうで、その言われたお子さんが
「もう彼には二度と会いたくない。」
と話していると、その言われた子のお母さんからお聞きしました。
子どもの話すこと、どこまで本当なのかわからないし、私はちょっと信じられないのですが、もしそうだとしたら、ちょっと残念です。
子どもにとって誰に評価されるよりも、親御さんに評価されたいのだと思います。
結局、よく言われる自己肯定感というのがだいじなのかもしれませんね。
そちらについては、書くと長くなるのでまた気の向いたときにでも。