前々回少し触れたのですが、ネットの連載にはまりました。
記事が書かれたのは少し前ですので、毎週連載を待たずに一気読みできるのですが、39回までで連載が止まっているようです。とても残念。
ちなみにこちらは途中から有料記事になってしまいますが、10回分くらいは読めますし、それもかなり内容も読み応えがあります。私はひと月無料なのでとりあえず登録して読みました。
よかったら読んでみてください。ASDという診断をされた息子さんと、大人になって自分もそうであったと気づいた著者奥村隆さんの話です。
息子なりの理屈があるのか
息子はADHDの傾向があるなとは思っていましたが、この連載で語られる著者自身や周りの同様な傾向のある方のいくつかに、息子のことでも考えさせられることがありました。
たとえば、こちらの連載の奥村さんやその息子さんなどは、ASDと診断されたようですが、特徴のいくつかに
- 時間にとても細かい(分単位、秒単位)
- 綿密に立てたスケジュール通りにいかないとパニックに陥る
- 人の気持ちを配慮することができず、思ったことを口に出してしまう
ということがあり、大変な苦労をしています。
奥村さんも人にどう思われているかに鈍感であったのですが、高校時代にそこそこ仲のいいと思っていた友達が自分をとても嫌っていたことを知って愕然とするのです。
それで、彼自身が自分を周りの人と比べて客観的に見て、人に好かれるために多くの人が自然にできるような配慮などを知識として習得して、少しずつ周りとうまくやっていけるようになった。だからこそ、まわりの人とそのような人との違いを客観的に語ることができるのでしょう。
(おそらく同様の症状のある方で、自分が他者となにがどう違うということがわからない人は、一般の人の視点を意識した記事は書けないでしょう。)
いくつか、なるほど、と思ったり、身近な人を思い出したりしました。
私はそれまでASDについてよく知りませんでしたので、息子とのやりとりでどうしても理解できないことなどにこういった視点でみると読み解けるのかなと思ったことがいくつもありました。
今まで書いていたように、息子はASDの人とは逆に時間管理がとても苦手です。
スケジュールを作ってもその通りになんて動きません。
一見真逆と思われるし、実際かなり違うのですが、ここで息子さんやその他ASD様の症状を持った人たちの言う、私から見ると「屁理屈」にすぎないようなことや、正論なんだけど、そこは言わないでしょうといったことを息子もよく言うのです。
そして、その屁理屈を絶対に曲げない。人の言うことに耳を貸さないのです。
文字通り聞く耳を持たない
連載の初めの方で、医師に息子さんを見せたときに絵を描かせるエピソードがあります。
人の全身像を描いたとき、息子さんは耳を描いていなかった。
耳を描かない人がASDの人には多いと言われ、奥村さん自身もそういえば自分も描いたことがないと気がつくのです。
試しに何も言わず息子と夫に試してみました。二人ともあまり絵心はありませんが、息子は小学生の頃四コマ漫画を描いていたりしました。
夫は下手ながら耳を描き、息子は描いていませんでした。ほかのパーツはそれなりに手指も描いているのですが。
なんのために言うのかわからない
確かに人の言うことは小さい頃から聞きませんが、さらに息子の話は目的がわからないことが多いのです。
たとえばこの正月休み中、帰省の時にいつも使っている駅で、夫が最初に電車を降り、すぐ近いエスカレーターから乗り換えに向かいました。
私も息子も続いたのですが、そこで、
「ここは一番近いエスカレーターではない。」と言うので、(そこは夫も通勤で何年も使い続けた駅であり、そんなことは承知している)私が
「でもそんなに遠回りってほどでもないでしょう? 近いところに行くには、どっちにしろホームを歩かなくてはいけないし。」
と軽く流そうとすると(相手をしなければよかったのですが)、
「でもホームを歩いた方が上を歩くよりも少し歩く距離は短いじゃないか。」
というのです。大して変わらないというと、正確にはエスカレーターが反対側に上る分は下の方が歩かなくて済む、と細かいことを言い出します。
どうでもいいですが、乗ったエスカレーターは途中で折り返すタイプでしたが、近いという方は乗り換えホームに向かって一気に上っていく(折り返さない)タイプでした。
でも、すでにエスカレーターに乗ってしまったわけだから、もう引き返すわけでもないし、息子はどちらかというと鉄道好きで遠回りが好き、散歩も大好きで徒歩を嫌がるタイプではない。
「一体なんのためにたかだか10メートル程度のことでケチをつけなきゃいけないの?」
と私も毎度のことなので返してしまい、歩きながらもめました。
時間に対して大雑把なのに、こういうことに細かいのです。
自分は普段無駄な時間の使い方や遠回りをしているにもかかわらず、やたらとちょっとしたどうでもいいくらいのことを言います。
息子はこういうどうでもいいところで余計なケチをつけたり、何事にも反論を返すということが日常なのです。
たとえばテレビのリモコン操作を押し間違えただけですかさず、そっちじゃない、という指摘もほぼ確実にします。
「知ってるってば!」
と、これまた喧嘩になります。助かるところはお互いすぐ忘れて気まずくはならないところですが。
たとえば交通機関に二つの候補があったとき、Aを選べばBがいいといい、その逆なら向こうも逆がいいという具合。そこにたいした理由はありません。
それで、私も夫も「またか、いい加減にしろ」とうんざりしているのです。
たまたま乗ったショッピングビルのエレベーターが通常のものよりだいぶ入口が狭かったので、
「このエレベーター随分狭いのね。」
と感想を言っただけで、
「それはこのビルの事情があるのだろうから、仕方ない。」
と、事情など知りもしないのに始まります。
とにかく、ちょっとしたことを漏らすとすかさず反論するので、本当に疲れる。
また、「寒い。」
というので、
「上着をきたら?(または靴下履いたら? 暖房つけようか?)」
というと、
「いい(なにもしない)。」
という。
(なにもしないなら黙ってて。)
全てなんの解決もしない会話になってしまうのです。
ですからこちらはモヤモヤしかしない。
エレベーターの件で、
「なんでなんでも反論するの? なぜソッチ側(ビルオーナー)なの?」
と大人気なく聞き返すと、
「別に自分がソッチ側なわけではない。本心では自分も狭いと思ったけれども、バランスをとりたいんだ。」
という。
「ディベート大会じゃないよ、これ! なんで是か否かやらなきゃいけないの?」
人が相手に話をするときは、なにか目的を持っていうのじゃないか。
ホームの出口の問題なら、改善して欲しければ言うし、そうでもなければ言う必要はない。
寒いから「エアコンをつけてくれ」というなら話すが、どうもして欲しくないならわざわざ言わない。
または、お互いどうしようもないが、共感することで、少し辛さや不満を紛らわすというのも大きな目的ではないか。
こんなやりとりは上記連載とは異なるのですが、ただ息子が、私が当たり前と考える、「共感や目的のために」話をしていないのではないかと連載を読んでいて気づきました。
私は夫が一番近いエスカレーターを使わないと気づいても、そこで正しいことを言ったところで、なんの意味もないと判断して黙ってついていく。
でも、息子は夫をけなしたいというわけではなく、ただ事実を言っただけ、という感じがします。
息子はいじわるな感情というのも見せたことがないので。その辺が、奥村さんらと息子は症状は違えど、多くの人と少し異なるという点で似ているような気がしました。
じゃあ、なんでただいっても仕方のない事実を言うのか。
人がどう感じるかに無頓着
夫や他の多くの人と話していても、こういうイライラした会話にはなりません。
なんでこんなにイラっとさせられるのだろうと改めて考えると、息子は人がどう感じるかに鈍感なところがあるなと思い当たりました。
夫は「脊髄反射で物を言うな!」と言います。
思ったことをすぐに口に出さず、それを言ったら相手がどう思うかを考えろ、という。
このことで義母が似ていることを思い出しました。夫によれば義母もよく余計なことを言って場の雰囲気を悪くしていたそうです。
私も、義姉があげたプレゼントを、その場で
「これは持っているからだれかいらない?」と他の人に押し付けているのを見てびっくりしました。
また、私が海外旅行の土産に買ったファブリックを「やはりいらないわ」と言って返してきたことも。そのくせほしがるので面倒。
この連載を読んだことで気が付いたことは、私や多くのそれなりに他人への配慮ができると自覚している人は、誰もが自分と同じ感覚だろうと思っているけれども、そもそもの基準が違う人がいるということです。
「せっかくあげたものをその場でいらないと言ったら相手はどう思うだろう。」
という配慮ができない人がいる。これはASDの奥村さんが同様でした。もらったものやしてもらったことに正直にケチをつけてしまう。欠席中のノートを貸してくれた相手にノートの汚さをダメだしなどして嫌われてしまいます。
また、奥村さんはしてもらったことにケチをつけてはダメだと「学習」してからも、思ったことを正直に言えないことに多大なストレスを感じるのだそうです。
それで多くのASDの人は人間関係でつまづきます。
ASDの方はとても困難を抱えていて、本人も家族も大変なのだと知りました。
感情の機微に疎い
以前「あいくるしい」というドラマで神木隆之介くんが演じた主人公の男の子が、小学校高学年になっても「泣いたことがない」、と言っていて、そんな子もいるのかと見ていました。
その後子育てをしてみて、息子が悲しい感情を持って泣いたのを見たことがなく、本人もそう話しています。学校行事で盛り上がって泣いたことが一度だけあると言っていました。その時すこし嬉しく思いました。
あれだけ大好きだった小学校の卒業式でも泣いていませんでした。
それでも卒業後も何度遊びに行ったかわからないほどです。
おじいちゃんが亡くなったときも、もう悲しい感情を理解していていいと思われる年でしたが、やはり泣きませんでした。それでもおじいちゃんに最後の手紙を書くと、それなりにいい内容で、とても大切に思っていたのが窺えます。
なにか辛い思いをしている人たちに興味がないというわけでもなさそうなのです。
でも、共感して涙する、ということはない。
無感情ではなく、いつもニコニコしていて穏やかで、面白いことが大好き、ASDの多くの人とは違って、人と上手くできないわけではありません。好きな友達もはっきりしています。
小学生の頃は「あの子と親友になりたい」と話したこともあります。
でも、嫌いな友達はいないと言います。
時々姪っ子たちがちょっとしたことで不機嫌になったりするのを見て、そういえばうちの子は、私や夫に怒られたとき以外で不機嫌なことは一度もないな、八つ当たりとかそういうこともほとんどないな、と思ったことも。それでわりと友達には好かれるようです。
連載で奥村さんが、ASDの多くの人は、人に対して悪い感情を持たない、だから悪口が嫌いだと書いてあり、そこはよく似ていると思いました。
人格者というよりは、人の感情の機微に疎く、関連して嫉妬や憎悪にも鈍感でいられるのではないかと思うのですが。
だからでしょうか、自分が誰かと張り合いたいとか威張りたいというのも特にない。
少しは負けず嫌いになってよ、と思ったりもするのですが、それも仕方ないのかもしれません。
連載では、奥村さんの友達として、大学の「数学好きのサークル」のメンバーが出てきますが、そこに乗り鉄の人がいて、電車のスケジュールを綿密にたてたのに電車が遅れると、別の特急とすれ違えないと怒るというエピソードなどがあります。
息子も乗り鉄の旅ではスケジュールを分単位でたてるし、同時に上野駅を出る特急が並走するのは珍しいんだなどと言ったりします。
何かにとても興味を持ち、追求して、その話になると止まらないなんていうのも似ているところ。
たっぷり読んでみて、息子がASDだとは思いませんでしたが、息子の私にはよくわからない傾向も脳の特性であって、生来のものなのかなと思いました。
息子の友達と似ている
実は連載で言われる奥村さんの傾向は、息子の友達に似ていると感じることが多々ありました。
- 数字に強いこと、
- フォトグラフィックメモリー(写真記憶)が得意な人が多いこと、
- 胎内の記憶があること、
- 人間関係がそう得意でないらしい(母親談)こと(友達はそんなに不快になるようなことは言いませんが)
写真記憶が小学校高学年くらいがピークだったと言って、その後あまりできなくなったというのもその友達の話として聞きましたが、奥村さんもそう書いていました。
友達のお母さんも同様で、途中から写真記憶ができなくなり成績が落ちたと嘆いていました。友達は勉強はとてもできるのに、本が読めません。
仲のよい友達ですが、息子とは真逆のような気もします。
また、その子もこの連載の奥村さんもですが、とても体験記憶も得意だと思っています。私は自分の過去をこんなに長く具体的に書けないわ、と読んでいて何度も思いました。
ただ、語られている非常にたくさんのエピソードは、本当に自分がそこにいたらうんざりしてしまうなぁという大変なものです。
他人はその一瞬を不快になるだけではありますが、他人からそう思われて居場所を無くしていくとしたら、そういう方の苦労ははかりしれないな、と思いました。
実際、奥村さんの友達で同様の性質をもち、かつ自覚がないであろう人の何人かは職場などで大変苦労して転職を繰り返したりしています。
長い連載で、思うところも数え切れないほどありました。
うまくまとめることができませんが、長くなるので続きは次回に。