悩める子育て

幼児から中学受験→難関校からの大学受験、その先を考える

続・思春期の親に向けたメッセージ

前回の続きです。

 

vt-maguna.hatenablog.com

 

第5章 「教養とは「何を知らないか」を知ること」より

タイトルについてはまさにその通りで、教養に触れなければその存在や奥深さを知るまでもないし、自分の半径3メートルくらいが世間になってしまうんだろうなと思う。

私は「何を知らないか」の「何を」の部分が少なくて、漠然と「知らないことは多そうだ」と感じているレベルなので、あまりこの辺のことは語れない。

この章では均質化について危機感を持って語られている。階層化も進み、均質な環境しかないとその他を理解することができないのじゃないか。また均質性の高い集団に入った時に周りから浮いてしまった時の悲惨さについても。
階層化が進みすぎるのはやはり怖い。
 

 

息子は受験してある意味均質性の高い環境に入れているが、やはり友達との会話が、私の中学時代の友人とのそれとは全然違うことを感じる。親のバックグラウンドも。考え方も。

それでも、地元の中学へ入れればいいとは思わなかったので受験をしたのだが、そんな今彼のいる環境がすべてではまったくないのだよ、と話すことは多い。

  

今は趣味や関心もすごく細分化されているそう。そして排他的であると。
私はその点も気になっている。あまりに視野が狭い人は魅力を感じない。

 

自分の知らない世界に足を踏み入れれば新しい楽しみも得られる。視野が広い人は懐も深い気がする。
放っておくと、マニアックなことにはまっていく息子であることは知っている。
オタクなだけではそれ以外の人とコミュニケートできないだろう。
興味がないから話が通じない→話が通じないから接触しないとなって閉じていく人も多いのではないか。

何かに深く関心を持っているオタクの人の魅力はある。だけど、さらにあらゆることに関心がある人の方がより魅力的だ。

 

第6章 「義務教育は十三歳までに」より

ここはかなり本書のタイトルに沿った内容。親として、思春期の子どもがどうであるかを改めて考えるきっかけになる。

まだ子どもらしい容姿だが、必ずしも子どもらしいことを考えているわけではないこと。子どもは親の望むような人間のふりをする。

酒鬼薔薇を取り上げて大人は、ああいうことを考える子は普通でないと考えるが、そういう中学生は珍しくないという。

親は子どもにステレオタイプな接し方しかできず、コミュニケーション能力が下がる。

「ストック・フレーズ」という言葉が出てくるのだが、ああ、こういう考えないで物を言うみたいなのって確かにあるし、コミュニケーションをとっているようで、実は全然とっていない、と感じる。

正論だったりして、それを言われちゃったらおしまいみたいな。
で、言う本人は、さも自分が正しいと思っているのだけど、相手の事情とか都合とかは一切考えない。言うのは簡単なんだけど、そういうことを気にしない。

 

子育て中にもそういうのがあると思う。

「抱き癖がつく」 「やめ癖がつく(から嫌がっても辞めさせない)」 「皆勤賞はえらい」
「一人っ子はかわいそう」 「ひとり親はかわいそう」 「友達はたくさんいなくては」
「明るくハキハキしている子が良い子」 「我慢も必要(だから、困難にも耐えさせる)」

本当にそうか?と聞いて、きちんと答えられる人はどの程度いるのか。

それで不登校の子を持つお母さんが他の保護者に会うと、

「そんなに休ませたら、大変よー。」

とか上から目線で「心配」されたりする。

 

自分が子育てをする前には、自分もそんな価値観(というほど思考もしていない。いわゆる刷り込み)を持っていた気がする。

子育てしてみて、だんだんそうじゃない…とわかってくるのだが、意外とそのまま押し通しちゃう、または子どもが折れて押し通せちゃうという親も多いような気がする。
中には子どもがどんなに反抗しても、押し通しちゃって、親子関係がボロボロになっている親もいる。

でも、子どもはそんな親を冷めた目で見ているのだと思う。

 それでも理解する器のない親の気をひくために、一層自分の生活を犠牲にしたりして、見ていて痛々しい子がいる。

もう、親に執着するのはやめて、自分のためにどうすべきかだけを考えた方がいいよ、と言いたくなる。

一方、果たして自分に子どもとの齟齬がないか、それも考えなくてはと戒めになる。

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第7章 「エンタテインメントという「大いなる希望」」より

正か否かという二者択一になりがちなのだが、もう少し緩やかに物事を考えられないか。
祝祭的なもの(エンタテインメント)を一緒に体験することがいいのじゃないかというような概要。

どうしても何かがあるとそこに「意味付け」をしがちだという。

そういう意味付けでテレビなんかは成り立っている気がする。不倫問題叩きしかりランキングしかり。

どんな夫婦だろうと不倫は悪、だから叩いていい。
(人をよってたかって叩くのは悪いことではないのだろうか)

ランキングは非常にはっきりしていて、何位って言ったら、それで終わり。3位は1位より絶対的に劣っているみたいな見方。

ストック・フレーズもそうだが、思考停止な感じがする。何も考えないし、何も見ない。
一番ならとにかくすごくて、だからこそ記録をうちたてる人はわかりやすく尊敬されるが、そうでない人はあまり注目もされない。

 

かなり話がずれるが、そういえばずいぶん前に暇つぶしに読んでいた本に、怪談の「新耳袋」というのがある。

 

怪談話の聞き書きのようなものだが、普段怪談話をほとんど読まない私がたまたま手にとって面白いと思ったのは、これに何のオチもないからだ。だからこそリアルな感じがして、怖いのだ。

悪い夢にオチがないこと。自分の不思議な体験に何の意味付けもできないこと。これが大方の事実だと思うのだが、そこに、実はここには因縁があって…なんてもっともらしい意味付けをされた時点で、それが急に陳腐な創作に成り下がってしまう。
「だからなに?」と言いたいところをそのまま本にしている潔さが好きなのかも。

 

そもそもなにかが起こった時に、それが不思議なことでなくても、我々は意味付けをしたがるのだろう。

養老孟司さんが、彼の詳しい虫の生体について「なんでこうなのか」と尋ねられた時に、

「答えを出そうと思っているうちは駄目なんだ」と答えたという話を紹介していた。

 

そういう意味では子育て中も、

「役にたつから〜しなさい」とか「将来できないと困るから勉強すべし」みたいなことを言いがちなことに対して、内田さんが別の本で疑問を呈していた。

 

そういうことは理解しているつもりだが、実際の子育てで自分がどっしり構えられているかというとそうでもない。やはり、「こんなんで社会でやっていけるの?」と心配になってしまう自分がいる。そこが親の難しいところなのだろうな。

 

第8章 「親は役割である」より

そう思ったところで、次の章冒頭で、そこを突かれる。

子どもをいじりすぎないでほしい、からはじまる名越さんの言葉はとても耳が痛い。

さらに、子どもは叱られたときに親の言葉なんて聞いてやしないと内田さんが畳みかける。

ううううむ。

もちろん、だから放置しろということではない。
章題のとおり、母性は内面から出るものでなく、演じるものだ、だから演じ方を学ばなくてはいけないというのだが。言われてみればそうである。自分はどんな親たりえるか、どういうスタンスでいこうか、というのは少し考えるところ。

 

ただ、なにも知らないで、目先のことだけ考えて遊んでいた自分の中学時代を大きく反省した過去がある身としては、半分くらいは親にその先の世界を教えてほしかったという気持ちもある(親自身知らないのだから仕方ないのだが)。

教えてくれなくても、自分で調べてやっていけという指針がほしかった。それでも私は進路を考えてきたけれども、何も考えずに行き当たりばったりの人も多いのだと思う。

以前の入江塾の記事でも、中学生から大学受験を見越して考えるべしと書いてあるし、今読んでいる就活の本にも、大学入ってからじゃ遅いと書かれている。そういうことは、当事者である子どもは放っておいたら知る機会がない。

 

その加減がまさに悩みなのだよなぁ。

 

少しそれるが、子どもが小学生の、特に低学年の頃、読書感想文を書くと言うのでそれを見てやっていたが、どの程度までアドバイスすればいいのかよくわからなくなった。

好きに書かせるというのも、学ぶという面では足りない気がするが、ここはこう、ここはこうしたほうがいい、とやり始めるときりがなくなりそうで怖い。

そうして二学期に張り出された他の子の作品を見ても、明らかに本来のその子の作品じゃないよな、というものをいくつか見ては、なんとも複雑な気持ちになった。完成度が高くてずるいとかそういう陳腐なことじゃない。ああ、わかる、って感じ。

 

別の機会。イベントで友達親子とエコバッグに絵付けをした。

まあ、絵を描くだけだしと私は隣で見ていただけだが、友達親子は、その子が描き始めるや否や、「そうじゃないわよ」と言って、もうお母さんがずっと描き始めてしまった。9割お母さん作という(子どもは小学生。赤ちゃんで描けないとかではない)作品を見て、あちゃーと思った。
でもお母さんは「いいのできたね!」と満足顔。いや、ただの大人の作品じゃん、と心が寒くなったのを思い出した。

 

さらにさらに、書き初めの宿題。めちゃくちゃうまい作品を出した男の子。習字はならっていない。すごいね、と言うと、「はらいひとつで100回くらい書かせてるから、本人は泣きながら書いた」と言う。怖い〜〜と他の保護者は震え上がったのだが、実際その子はその甲斐あってか、ずっと達筆だった。

まあ、あれだけやらせたからこその成果だよね、と思ったりもする。
このケースは親が自宅でだったけれど、塾やならいごとのスパルタだって同じことだ。

 

結局、どこを行けばいいのだろう。

さじ加減が難しいという思いは変わらない。

 

お二人の現場から得たいろいろな経験や考えが盛りだくさんで読むのはどんどん読めるのだが、まとめるとなると、会話形式なので難しかった。

ちょっとずれている解釈もあるかもしれない。

ただ、私は興味が散漫で忘れっぽいようなので、備忘録程度に。
何かのお役に立てれば幸いです。

 

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