悩める子育て

幼児から中学受験→難関校からの大学受験、その先を考える

10年後も生き残る知性とは〜『ユダヤ式エッセンシャル学習法』

少し前に読んだ本だがなんとなくまとめずにいた。
 


ユダヤ式勉強法というのは、なんとなく本屋で目にしたことがあるし、ユダヤ人は賢いという印象がある。だが、宗教についても生活や歴史についてもそう詳しくはなかった。

著者は京都大学在学中に司法試験に合格、弁護士となってからもアメリカで学び、ユダヤ教に改宗してユダヤ人となった。

 

www.nri.com

 

野村総研のレポートで半数近くの労働人口が人工知能やロボット等で代替可能になると言われた。
これから生き残るためには物事の本質にいかにしてたどり着くかが大事だという。

 

ハーバードで学んでいるときに、学友から彼の出たオックスフォード大学でどう勉強して来たかを聞いて、それまで日本の大学で法律を詰め込んで来た著者は衝撃を受ける。

「僕は法哲学と法倫理など原理原則を学んだ。基本的な物の考え方や、法が考える正義はこうだ、ということを学んでいるから、法律がどれだけ変わっても視点がぶれることはないんだ」

 

知識のインプット、アウトプットではなく、物事の本質、原理原則を学ぶ。

そういう教育を受けてきたエリートたちと対等に渡り合うのは、なかなか難しいだろうと感じたのである。

 その筆者が、ユダヤ人となって身につけてきた本質をつかむための知性の磨き方が本書のテーマだ。

 

章立ては序章の他に「なぜ?」の視点、原典主義、分類主義、歴史を学ぶ、倫理/宗教を学ぶ、言語を学ぶの6つ。

 

まずユダヤ人にとってユダヤ教と学習がこれほどまでに強く結びついていることが印象的だった。

 

「なぜ?」の視点

ユダヤ人にとって学びとは考えることで、「なぜ?」という問いのもと議論がかわされる。聖書などにじっくり向き合い、人生や宗教など普遍的で根源的な問題について考えることが大事だという。

「なぜ?」の視点はユダヤの人ってこんなに考えるの? と驚くほどの事例が載っている。

ただ、エッセンシャル=本質的という言葉に私が惹かれた通り、物事の上っ面だけ、行動とその結果だけみていてもあまり真実は見えてこないんじゃないかと感じていたので、なんとなくしっくりきた。というか、安心した。世界にはこんなにしつこく物事を突き詰める人たちがいる。そりゃ、色々かなわないな。

 

「なぜ?」の重要さについては割愛する。ただ、とても日常的なことに落とすと、時々私は息子にこういう。

先生から出された課題について。
「なんで先生はこのタイミングでこの課題を出したか考えてみて。期限までどのくらいかも含めて考えれば、どんな風にどの程度手をかけてやればいいかわかるんじゃないか。」

私が人に教えたりする時には、必ず目的があって課題を出す。
だけど、ほとんどの子どもはその意味なんて考えない。
だから答えを写してきたり、やって来なかったりする。でも、その結果なんて考えない。一番よくないのは、やっていないのにやって来たふりをすること。
バレないことによって、本質はどんどん遠ざかっていく。本人も指導する側もいくべき道を見失っていく。

 

でも、子どもに限らずこういうことは多いと思う。

いつぞや子どもの難しい課題の取り組み方について保護者数人で話していた時、「わからないから優秀な子に教えてもらって解答していい成績をもらう」という前提で話している人と、「そもそもほとんどの子が解けない難題に多大な時間を使っても、課題の得点はそう多くないのだから、課題に取り掛からずその分を本人の身になる勉強をしたほうがいいのでは?」という意見(課題提出は自由で加点式)があがった。

 

どちらかというと、私は後者の意見に馴染んだ。教われば本人が自分のものにできるようなレベルなら前者で自分の力にすることもいいと思うが今回はわからないから、超得意という子からほとんど答えを教えてもらうに近い状況。

私もそもそも学校の評定にさほど興味がないので、それなら自分の身の丈にあった勉強をするのもありかと。

 

ただ、私は勝手に、きっと先生はグループ課題だったので、その中で協力して解決に向かって欲しかったのではと考える。そこまで時間もかけられず、放課後など時間を合わせて取り組むのが皆忙しくて難しい現実は、とりあえずグループで問題を分担してあとは一人で解く子が多い様子。互いの分担分なんて見てもいない。

ううん。悩ましい。

 

「なぜ?」と言うのは目的を問うている。目的ありきと言う考え方は馴染んだ。

 

原典主義

また原典主義というのは、これからの教育にとても参考になる。

原典主義とは、「原典にあたる」、つまり「もとの文献や原本にあたる」ということだ。原典にあたることで、本当に存在したのか、本当はどうだったのかを確かめることができる。「証拠」とは原典のことだ。

 ユダヤ人にとっての原典とはヘブライ聖書である。

そして、ボーディングスクールなどでも原典主義は一般的。

膨大な史料をあらかじめ宿題として読んでくるが、覚えるためではなく、考えるための素材として取り入れる。

エリート校では、史料の原典を読ませない歴史の授業はあり得ない。当たり前である。史料を読んで生徒一人ひとりの考えを議論するのがアメリカやイギリスのエリート教育だからだ。

 さらにフィールドワークや実験・実習を通して自分はどう考えるか、何を見つけたかという視点こそが学びの肝なのだという。

 

本当はゆとり教育の目指していた理念はこういったことだったんじゃないかと思う。
やり方が不十分だったのかもしれないが、それだけではなく、このような教育を取り入れるには、入試制度がそれに合ったものでなくてはならない。
そこが変わらないまま中途半端なゆとり教育だけがスタートしたから問題になった。

その辺が本書でも触れられている。

アメリカで原典主義の授業が成立するのは、日本のような知識偏重型の入学試験がないからだ。

ずいぶん前に茂木健一郎さんがテレビ番組で東大生と激論を交わしていたが、その頃はまだまだ世界に出ていない日本人の多くは、ゆとり批判真っ只中だった。

 

原典主義はビッグデータとなり、イノベーションを引き起こす。

そして、

人工知能が、人間の手による実践よりも確実に早く正確に、原典主義、現場主義を代行するようになった

 そんな人工知能時代の学びの意味として、自説をあげている。

ビッグデータと人工知能の活用により原典主義のアプローチが進めば、ますます「個」が重視される世界になるのではないだろうか。

 みんなが同じ知識を持っていて同じ結果を吐き出すのではなく、それぞれがそれぞれの考えを持ち、それぞれの答えを出すということか。
これが実は今までの与えられた知識をインプットしてアウトプットできるようにするよりずっと、教育の影響を受けるし、レベルの高い要求なんじゃないかと思う。

 

vt-maguna.hatenablog.com

 

この手の本を読んでいくとだいたい似たような結論にたどり着く。
過去記事で挙げた『モチベーション革命』も然り。

それで、大学入試改革も進むのだろうし、それに伴いアクティブ・ラーニングなども取り入れられつつあるのかもしれない。

 

分類主義

分類主義もなかなか面白い。自分で考えるための鍵として「分類」を挙げている。

また、分類が発展している社会ほど、語彙が多く存在し、社会が高度化しているといえる。分類の多さは思考力そのものであり、言語力そのものであり、学問の程度そのものであり、文化文明の程度を示すバロメーターなのである。

 

例として色の多さを挙げていたが、最近見たTEDのテーマに近いものがあった。

www.ted.com

 

『言語はいかに我々の考えを形作るのか』

この実例を見ると、確かに言語分類の多さが思考に大きく影響する。

つまり分類が多いほど、深くなる。

 

実例を読んでいると、そこまで心配しなくても!というほど、こういう場合は?こうなったら?という分類による仮説を立てている。あんまり友達にはなりたくないなと思ってしまうが、ユダヤの議論はどちらが正しいと結論を出すものではないらしい。

ああ、ここまで日本人も注意深く対していれば、福島原発の事故などなかったんだろうな、と思ったら、著者もそう述べていた。

 

歴史を学ぶ

ユダヤ人はヘブライ聖書を学ぶことでユダヤの歴史を学んでいる。
歴史を学ぶことの意味は?

国際政治にもそれぞれの国の背景を知らないことには、判断できないことが多いだろう。

例えば

日中戦争を歴史の流れで位置づけて考えるには、当時の世界を動かしていたイギリスとアメリカが、第二次世界大戦に置ける世界的な軍事戦略の中で、アジア戦線をどう見ていたかを知る必要がある。

 といった具合。

 

驚いたのは、アメリカにあるジュニア・ボーディングスクールで中学三年生の日本史の期末試験(日本史??)として、三島由紀夫と河上肇というかたやナショナリスト、かたや左翼運動の理論的支柱のマルクス経済主義者の二人の文章を読んで、彼らの思想の違いやなぜそれが生まれたのかについて意見を述べよという問題が出ているということ。

 
日本のエリートが叶うわけないんじゃないか。
難関校の子でも今どき思想や歴史を深く学んでいる子は少ない。大学生であっても大差ないのではないか(個人的には昔よりどんどんそういうものから距離を置く様になった気がする)。

結局そういう教育をしてこなかった、に尽きるのかもしれないが。

 

vt-maguna.hatenablog.com

 

以前過去記事に書いた、『君たちが知っておくべきこと』を読んでいるときも、当たり前の様に各国の宗教や歴史といった背景を知っているのを前提で話が進んでおり、それらを知らないまま、極東の島国の独自さを持って世界情勢を読み解くことはできなそうだと感じた。

 

倫理/宗教を学ぶ

それは、そのあとの「倫理/宗教を学ぶ」でも感じる。

倫理が社会に伝承・共有されていない国は、世界的に見れば“変な国”である。一神教のユダヤ、イスラム、キリスト教の世界は、全て宗教上の倫理が社会に存在する。

 まあ、ちょっと全体的に日本にダメ出しが多いのだが、そこはいちいち反応しない。

 

日本にいて他の国の治安の悪さや格差の大きさなどを見て、宗教が国を安定させているとはあんまり思ってこなかったのだが、それは無知による安易な思い込みかも。
倫理については、皆が「これ」とする様な明確なものがないことは確かだと思う。
ただ、その割に日本が落ち着いていて良くも悪くも空気を読む、阿吽の呼吸みたいなものを共有しているのは、島国の所以か。

日本人にあまり寄付の習慣がないことなども、宗教の影響が大きい様な気がする。
ユダヤでは、ツェダカという、貧しいものへ手を差し伸べる教えがあるそうだが、それは義務であって、日本人が行なうチャリティとは違う。

ということは、自ずと社会保障などへの考え方や仕組みも違ってくるのだろう。

 

言語を学ぶ

ここでは、多くの国が多言語国家であるとして、日本人のモノリンガルに危機感を煽る。

 

ただ、上記のTEDの話ではないが、言葉は文化そのものであるから、複数の言語を話すということは、複数の文化・多様な見方ができる。
シリコンバレーがイノベーションを生む理由としてアメリカ人、インド人、中国人、ユダヤ人が入り混じった人種構成になっている背景をあげ、

 言葉や文化の異なる人たちが同じ会社や職場で働き、多様な価値観や考え方に触れ、互いに触発し合うことで、世界を変える様な製品やサービスが生まれているであろうことは想像に難くない。

と言っている。 

 

ここ数年で日本の外国人観光客はグッと増えた。
もはや都内のサービス施設では、外国語対応ができないと困難が生じる。
楽天などが、社内公用語を英語にすることにして久しいが、むしろアルバイトやパートで身近だったはずのサービス業が一番言語の問題に直面している気がする。

今までの様に日本語しか話せなくても困難はない、というわけにはいかない。

 

まとめ

言語の習得もそうかもしれないが、この様に他の文化を知ることは世界を広げる。
宗教や歴史、言語については詳細を省いたが、どれも面白く読んだ。
ユダヤ人のノーベル賞受賞者が抜群に多いことも納得。

そして、日本の課題もいろいろ感じた。確かにこの20年くらいで、日本の世界での立ち位置も大きく変わってきた。
子どもたちが社会に出る頃、日本がどうなっているのか、そこで生き残れるのはどんな人材なのか、もはや国内だけ見ていては測れないのだな、というのも実感した。

 

そして、日本の教育。大学入試改革によって私立の学校などは知識偏重から別の方向へ舵を切っていくかもしれないが、それもどんな風にいつ変えていくのかは、少子化のなか、生徒を得る必要を考えれば、受験生自身がそう言った要望がないと難しいのではないか。

 

今就学前だったり小学生だったりする子の進路はより一層変わっていくだろう。
そして、今から準備できることも多い。知識詰め込みのための幼児教育ではない、自分で考える力をつけていく習慣が身につく様な育て方などを模索していく必要があるのかもしれない。