悩める子育て

幼児から中学受験→難関校からの大学受験、その先を考える

本当に卑屈なの?

過去記事でとりあげた記事の著者が書いた本を読んだ。

vt-maguna.hatenablog.com

 

『勉強できる子卑屈化社会』。

図書館で見かけたので、共感したというわけではないのだが、記事にしたし改めて読んでみるかと。
私の過去記事で引用している記事の内容とまあほぼ同じ。
むしろあるあるの多さに、著者の方はどれだけ嫌な思いをされたのだろう、と思った。

 

でもまた、そこまで人にどう見られるかにこだわるのか、とも。
自分の記事にも書いたが、勉強に前向きな人は、好きだからやっているのだからいいじゃない、もしくは、なんと思われようと努力して高学歴を取ることは将来自分の得になるのだからいいじゃない、と思っている人が多いのかと思っていたので、記事でも本当に損をするのは、その風潮にのっかってだまされて、勉強しない選択をしてしまう人だと思った。

 

でも、ここまでいろいろな勉強ができる子のあるあるを語られると、実際そんなに悲しい思いをしている人が多いのだろうか、と自分の推測に疑問を持った。

 

ただ、少し前にやっていたテレビ番組で、林修先生が東大女子の悩み「東大生なのにこんなこともできないんだと思われて心外(みたいなことだったと思う。うろ覚え)」といった意見に対し、「そんなの東大生に限らない」と言っていたのを思い出した。

 

確かに勉強できるというのはプラスのはずなのにマイナス要素として取り込まれるのは納得いかないという気持ちはわかる。
「勉強だけできたってダメだ」とは言われがちだが、「足が速いだけじゃダメだ。」とは言われにくい。それはそうだけど、結局勉強できる子は恵まれている。

プラスのことをおとされるのは理不尽だが、そもそもマイナスとされていることで差別されることが世の中には多くて、それはマイナスだから差別されても仕方がないと看過すべきでないことも多い。

 

容姿差別なんかは本当にひどい。
母親同士でさえ、「下の子(上の子と違って)イケメンね。」なんて言うのも複数回聞いたことがあったり、逆にあるお母さんが、「うちの子はあの見た目(マイナス要素として)のくせに〜」と言うこともあったりして、私はそんなこと言いたくないと思っているが、これもよくある話。

でも、つきつめて考えれば、人が集まって誰かを賞賛するとしても、それが生まれもった才能あってのことだとすれば、みな同じようなものだ。足が速くてすごい、も、歌がうまくていいね、も。

かといって努力した部分だけ評価したところで、努力も才能だとか、真面目できちんとしていることを評価してもきちんとしたくてもできない子もいるとか、結局言い出したらきりがない。

 

人からどう思われたいかで自分の立ち位置を決めることはばかげているし、第一みんながそう思っているわけではない、ということをもっと自信を持っていい。

 

だいたい、よく知らない人ほど、他人を無責任に評する。
評するといっても、冷静にというよりはむしろがんばっていない自分への言い訳だったり、コンプレックスだったり、真面目に取り合うほどのものでもない。

 

もし本当に勉強できる子がその風潮のせいで突出したくなくなるのだったら、気の毒だと思うが、一番の課題は、メディアや無責任な発言をする人が心を改め改善することじゃなく、本人が自分にとって本当に大事なのはなんなのかを見失わないような考え方を教えてやることじゃないか。

 

私も最近の記事で、親戚に息子の学校にいるような子は変だと言われてイラっとしたと書いたが、そこでその人にわかってもらわなきゃ、とまでは思わない。残念だな、とは思うけど、それも勉強できる子限定ではない。差別的に言う事にたいして。

基本的には他人がとやかく言おうが、息子が楽しく学校へ行けているので、それでいい。

 

本では東大に子ども四人を入れた「佐藤ママ」へのバッシングなんかにも触れていて、私も彼女を叩くバラエティをみたことがあるので、そのイラっと感もわかるけれど。

やはり、わからない人ほど表層的なイメージだけで語りたがる気がする。

でも、いろいろわかっている佐藤ママが、そんなイメージ的な感想にびくともしないだろう。
佐藤ママの本は読んだことがないのでよくわからないが。

 

どの勉強が、どの子育てが、どの習い事が、どの学校が合ってるかなんて正解はない。

むしろ本書で教えているような勉強できる子がうまくやっていくための処世術なんかより、教えるとしたらそういうことを教えて励ますのがいいのじゃないか、と思う。

そして、自分の子には人を勝手にわかったように評するのはおすすめしないと教えれば。

 

テレビが簡単にステレオタイプ化しすぎ、それがダメなのは同感。

でも、近頃の不倫叩きや不祥事叩きなど、テレビがどういう役目をしているのかな、と疑問に思うことはそれ以外にも多い。
影響あるものだからこそ、どうあるべきかはもっと論じられてもいい気がする。テレビはバカが見るものと切り捨てる意見もあるが、それも違うと思う。

 

勉強できる子の居心地が悪いことよりもっと大事なことはあると思う。

って言っちゃったらおしまいか。

 

でも、どう言われようが堂々としていてほしい。本書では、堂々とするならそれだけ振り切れろ、中途半端な学力やキャラじゃダメとか言っているが、そもそもそれこそが、人目を気にしすぎな気がする。

東大卒しか、社会で大活躍している人しか堂々とする資格がないわけじゃない。

だいたい学歴話になれば、「東大なんてダメ、海外では…」なんて言い出すあるあるも。

その理屈でいけば、結局世界一の大学の首席とかノーベル賞レベルの人しか堂々とできないとなる。そういうものの見方は結局ランキング礼賛と変わらない。

多分だけど、ホリエモンだって、林修先生だって、東大にいたことがあるからこそ、自分がかなわないすごい人がいっぱいいるということを知っているのじゃないかと思う。だけどどちらも堂々と思うことを主張している。自信があるからだと思う。自信の根っこは人との比較ではない。
学力の上下だけでは決してない。


その辺が、この本を読んで、しっくりこないところなのかもしれない。

 

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