バリバリ平成生まれの息子だが、古いもの好き。
有楽町の日劇が閉館するのをなぜか惜しんでいる。
そういえば、彼も小学校のとき友達らと映画を観に来ていたっけ。
先月から日劇ラストショウと銘打って、様々な過去の上映作品が時間別に上映されていた。その最終日。何を見ようか。
予約販売での購入だが、一番大きなスクリーンはすでに売り切れていた。『シン・ゴジラ』を観ることに。
格別の映画ファンではないが、子どもの頃から日劇はよく通りかかり、その巨大な映画の垂れ幕の中で一番印象的だったのが、ゴジラだった。
最後にそこで最新版を観て終わることになるとは、成り行きではあるが感慨深い。
テレビ放映の録画はしてあったが、やはり大きなスクリーンで見るゴジラの迫力よ!
そういえば『シン・ゴジラ』では、復元完成したばかりの東京駅が早くもゴジラに潰されぐしゃぐしゃになっていた。
日劇のある有楽町マリオンも過去、ゴジラに壊されている。
こちらもできたての体で壊される。ゴジラは新しいものが好き(嫌い?)なのか。
別れを告げにきた映画ファンは、年齢層が高め。85年の歴史に幕といっても、改装して20年足らずの劇場には、さほど感慨深いものはない。
個人的には、旧日劇の建物が無くなる時のほうがずいぶん寂しかったのだが、この映画館の閉館で、「日劇」という名前が消える。
センチメンタリズムに浸る気もないが、自分にとって子ども時代だった昭和が終わり、そして平成すら終わってしまうんだ、なんて思う間もなく東京は毎日変わり続ける。
東京駅はようやく完成し、丸の内はここ20年くらい工事工事で次々新しくなっていく。
日劇のある有楽町マリオンの向かいのニュー・トーキョーはすっかり姿を消し、数寄屋橋交差点のソニービルは、すでに半分以上その姿を消していた。
しかし、このまだきれいな映画館がリニューアルされた頃に生まれた息子が昔を懐かしんでいる様子はどこかおかしい。
おかしいが、「閉館しちゃうって〜〜。寂しい!」と言い出したのは息子で、上映終了後も写真を撮っている。
映画を観た後、最近買った息子の懐中時計に電池を入れにビックカメラに行った。今日は早速学校へ持って行き、「やはり懐中時計いいわ〜」としみじみ語る。
懐中時計に着物も着る。建築物から音楽から、国鉄の車両から、古いもの好きの息子。
対して私や夫はどちらかといえばあたらしいもの好きだ。
スマートスピーカーを買って質問しまくり喜んでいるのは私たち。息子は静観しているが、これからは新しいものに目を向けないと生き残れないという本も読んだし、もう少し先を観てほしいと思ったりもする。
一体この違いはなんなんだろうと思ったら、こんな記事があった。
アンティーク好きには幼少期に触れたからではと書いてある。確かに息子の小学校の校舎は戦禍を乗り越えたアンティークだったけれど、まだ言うほど息子がそれ以外で触れるものは古いものがない。
面白いのは、私たちの方の考察。
だが、古いものや慣れ親しんだものを好む人がいる一方、最先端のものを好む人もいる。ここには、どういった心理が働いているのだろうか。
■同じく幼少期の記憶が影響
「たとえば、子どもの頃に未来都市や近代的なビルの描かれた漫画や写真を見てワクワクしたことはありませんか。おそらく、こうした記憶が最先端ビルを見た時にノスタルジーを呼び起こすのではないかと考えられます。そしてそういった最先端のものに愛着を覚えるわけですね。よってどれだけ最先端のものであっても、その根底にあるのはノスタルジーであることに変わりはないのですよ」(内藤先生)
なるほど。ずっと東京育ちでふるさとがない私にとって郷愁(ノスタルジー)とは、昔のことしかないのかもしれない。私にとってはそれが当時憧れた未来のワクワクなのか。
気がつくとあっという間に10年たっていたりする。先日15年持つ非常用の水をみつけた。ずっとほったらかしなのは楽。だけど、この水を買い換える頃の自分は、と考えたら、ちょっと今は想像したくなかった。やはり水は5年くらいで買い替えでいい。
最先端に憧れるのに、あまり先は考えたくない矛盾。
断片的に記憶の引き出しから飛び出してくるシーンの数々。それが、前に見たときよりずっとセピアがかっていることに気づいてじわりと焦る。
あれ、「この前までのつい最近」のシーンのはずが、気がつけばかなり画質が荒れている。
光陰矢の如し。上野の子パンダももうだいぶ大きい。