古い記事ですが、たまたま目にして考えてしまった。
むしろコメント欄が面白い。
塾業界の都合かどうかはよくわからないが、こういう論調は詰め込み教育批判としてよく言われたりする。
ガリ勉がテレビで叩かれたりするのも同様で、以前からなんとなく気になっていたのだが、叩いている人が「知識を詰め込むことに真剣に向き合ったこと」があるのかという疑問を感じる。
バラエティ番組などで叩く時にはただイメージ的に根拠もなく子どもは遊ぶべきとか、安易な偏差値教育批判で、結局はやらないできた、やらせたくない言い訳のような気がしてならない。
だからといって、丸暗記みたいなものばかりがいいとも思わない。
これから求められる自分から考えて発言する能力なども、もともと知識がなければ何も語れないのではないか。
それにまったくわからないことは、知る機会さえない。
知識偏重の入学試験にしないために考えられた都立の中学の受検は、結局開けてみればこういった私立中学の受験勉強をしているような子が強いという話も聞く。
資料の見方、図形にどれだけ触れているか、漢字や言葉を知らなければ問題文を読んで適切に理解するのもままならない。
中学受験の算数などは、ものの根本的な考え方を鍛えられるな〜とワクワクする。
方程式でとにかくこうすれば答えは出るよ、という、オートマチックな機械のボタンを押すだけみたいなものより、こういうシステムを一から作るのはどうすればいいのかなんてのを考えてるようなものだ。
こういう算数を面白がってやる子は、きっとなにかを創造するんじゃないかと思う。
それに、こちらのブログに書かれているように、知識があるからいろいろなものにより一層興味を持つ、ということが実は多い。
話が微妙にずれるが、こちらの過去記事で書いたように、結局こういう詰め込み反対〜的論調で語られることに一番乗ってくるのは、詰め込みの努力をしたくない人たちかもしれないと思う。なんか知識のある楽しさを隠して「勉強=詰め込み=つまらない」ってだめ押ししているようで、もやもやする。
コメント欄のいろんな意見に共感したりする。
ただ、同時にこうも思う。いわゆるアクティブラーニング的に何かを語らせようとした場合、まずその題材を知らない事には何も語れないということを実感するし、語れる知識がない自分が残念だと思うのじゃないか。
以前そういうモデルとして、『ニューベンゼミ』で「豊臣秀吉ってどんな性格?」といった問題が出た時に、現役高校生たちは、「刀狩りをしたから〜」「太閤検地が〜」などと言って簡単ではあるがいくつかの政策やエピソードから語っていた。
だけど、たとえば「徳川家継について語ろう!」なんて言われても、し〜ん。
そもそも授業が成り立たなくなる。
↓ニューベンゼミについてはこちら。
というわけで、
これから言われているのは、知識だけじゃない教育が必要というわけで、今までよりもっともっと大変なんじゃないか。
過去記事で紹介した英語教育やその他の本を見たって、語学だって単語を覚え語彙を増やすのは当たり前でその上で必要な勉強がある。
そういう意味では、冒頭のような(やらせるの面倒な人に都合のいいとも言える)記事だけを鵜呑みにして、詰め込み批判をするのはちょっともったいない。
ただ、実はこの人の本は過去に読んでいて、いつか書きたいなぁと思っていた。
すごいのはこの人のお父さん。
究極の家庭教育を施して、結局息子三人を京大に入れたお父さんの話。
ほんと、究極で、このお父さんの行動力、強引だろうがなんだろうが引っ張っていく力、すごい人脈は、ここまですべては真似できないよ、というもの。でも、ひとつひとつには気軽に取り組めるものもある。
その教育をうけた著者が今の、塾の机に長時間座って暗記にふけっていると思われる(実際楽しんでやっている子が多いのだが)いわゆる受験塾にたいして疑問を持つのはわかる。
この教育法についての記事はこちら。こちらの記事はなかなかいい!!
だけど、思う。
子どもの中学受験もしてみて言える事は、塾なしで京大へ入るって普通じゃない。しかも環境がすごすぎる。
なんだったかつい最近読んでいたものに、知能は遺伝の影響を強く受けると出ている。
↑多分私が読んだ記事と同じ本の書評記事。
本にはおそらく分野ごとにどの程度遺伝の影響があるかがグラフに載っているのだが、これも面白い。
第2回「遺伝子は『不都合な真実』か?」(1) - 日本子ども学会 ~子どもたちの健やかな成育環境づくりを支援します~
グラフはこちらで。
これ読んじゃうと、教育して意味があるのかと思ってしまうけれど、確かに逆立ちしても叶わないという人たちがいるのは事実。
だからこそ、子育てにも王道はないんじゃないかと思う。
詰め込みでもないよりまし。
というか、知識があった上でのプラスアルファが問われる時代。
だから、暗記とかしても役に立たないよ! とたくさんものを知っている人が安易に言わないで〜とも思ってしまう。塾の理念はよくわかる。ただ、それだけでできない子の方が多いとも思う。
やらせたいことは山ほどある。
例えばYSAPIXのリベラル読解とか、面白そうだと中学入学前から思っていたけれど、実際入学してからそういうものをやる余裕がない(普通の勉強すらできていないのだから)。
センター試験が変わったりとか、教育界も試行錯誤しているけれど、あまり短期にフラフラしては、振り回される方が辛い。
だいたい今の高1は浪人したら新テストになってしまう。
私の時もそうだった。浪人したら共通一次じゃなくなった。
個人的にはいろんなことを知っている人は好き。
いろんなことを知っているということは世界が広いから、会話も面白いし、広い視野があるということはそれだけ懐もでっかいのではないか。
決して知識ひけらかし系が好きなのではないが、半径500M以内の自分の得意の世界に狭まりがちな人よりは一緒にいて楽しいと思う。
何かにすごく詳しいのもいいんだけれど、一つじゃない方がいい。
息子は友達とそういう知識の受け渡しをしたりするらしい。話しても仕方ないようなどうでもいいことをあーでもないこーでもないと話せて刺激し合える友達がいてよかった。
同じ学校に入試をくぐり抜けて入った仲間にも、前に書いたようなテストの点数至上主義みたいな子もいれば(といってその子が勉強ばかりしているわけではなく、いろいろしているから要領よく成績取ろうとするタイプなのだが)、40年以上生きてきて私が聞いたこともないようなことを膨大に知識として持っているが、テストの成績はち〜んな子、めちゃくちゃプレゼンが得意な子など様々いる。
ほんといろいろいる。詰め込んで受験したって。
そう考えると、「勉強しなさ〜〜〜い」と腕組みして待っていたくはないのだが。人生はうまくいかない。